グレンダロッホGlendaloughは、アイルランド有数の修道院遺跡です。
ウイックロー山地の西側のホリーウッドHollywoodから峠の山道を越えて歩いてきた聖ケヴィンがここに居処を定めて隠者の暮らしを始めました。これがグレンダロッホの始まりです。
ホリーウッドHollywood?ハリウッドじゃないの?なんかどこかで聞いたことがあるぞ。映画の都ハリウッド。マリリン・モンローとか。….その話はまた別の機会に、ね。
Contents
聖ケヴィンの巡礼道 Saint Kevin’s Way
ウイックロー山地は最高地点でも標高926mと、アルプスやヒマラヤ、さらには日本の箱根山地と比べると、山地というよりは丘の連なる荒れ野といった感じの場所です。
グレンダロッホの谷の横にそびえるカマデリーの山の裏側に、グレンダサンという谷川の流れる谷があり、そこを辿ってやって来ました。
今では「聖ケヴィンの巡礼道」というトレイルになっています。黄色のマークの標識が目印です。
グレンダロッホの谷
グレンダロッホGlendalough はアイルランドのことばで Gleann Dá Loch 「二つの湖の谷」。地元の人たちが毎週歩きに行く散歩の場所です。
氷河時代に大きな谷のできていたところへ、横のほうから直角に鋭角の谷ができて、そこから岩石が流れ込んでデルタを形づくったために、大きな谷の流れが途中でせきとめられて、2つの湖に分かれ、今のような地形になったのです。
山の上のほうまで歩きに行って見下ろすと、2つの湖がつながっている様子がはっきり見られて爽快です。この写真で手前に見えるのが「上の湖」Upper Lake、向こう側に小さく見えるのが「下の湖」Lower Lakeです。
こちらは「下の湖」Lower Lakeの畔から見た谷の景色です。朝いちの谷は静まりかえって清々しく、いかにもパワースポットという感じがします。いつ行っても少し歩くだけで元気がもらえる、特別な場所です。
狭い洞窟で祈っていた隠者
聖ケヴィンは人里離れたこの場所なら静かな祈りの毎日を送ることができるだろうと、上下2つの湖のある谷に居処を定めたけれども、教えを求め聖人を慕う人々が集まってきました。(かんべんしてくれ)
静かに祈りたいときは洞窟に入っていました(別名 聖ケヴィンのベッド)。狭い洞穴なので、祈るといっても寝ていたか座禅のように座っていたのかもしれません(壁に向かって九年の座禅を続けたという達磨大師みたいですね)。
「上の湖」の向こう岸にあり、洞穴の入り口が遥かに見えますが、ボートを漕いで行かなければ近寄ることができません。向こう岸は断崖の連続なので、よほどのことがなければ誰も来られない、確かに静かなところだったと思われます。(健脚だったのですね聖ケヴィンさん)
二重の門を備えた修道院
聖ケヴィンの存在は、ほとんど伝説のような色合いを帯びていますが、グレンダロッホのこの場所にたくさんの人が集まって住んでいたことは考古学的な調査で証明されています。
今も修道院遺跡 Monastic Siteの入り口になっている二重の門は、ここの修道院が非常に重要な場所であり、人々の尊崇を集めた場所だったことをあらわしています。
そしてその内側の西の壁に十字架のかたちを刻んであるのが、今もはっきりと残っています。
聖徳太子の同時代人だった、聖ケヴィン
聖ケヴィンはアイルランドの他の修道院、ダブリンやクロンマクノイズとも交流を持ちました。彼は617年に亡くなりましたが、その後もグレンダロッホはアイルランドでも有数の修道院であり、修道院を中心として集落が栄えました。
8世紀末までには修道院は在家の信者1000人を雇い、その人たちが耕作や牧畜で修道院を支え、食糧を備蓄して、たびたび襲う飢饉に備えていました。谷の木材を使って炭焼きもしていました。
さて、この617年という年は… 日本では推古天皇の25年にあたります。
推古天皇元年(593年)に、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させ、15年(607年)小野妹子を隋に派遣。
そして推古天皇30年(622年)に聖徳太子が49歳で薨去。
つまり、聖徳太子が活躍した時代は、聖ケヴィンと同時期だったのです。
さらに朝鮮半島に目を向けてみると、617年は新羅で華厳宗の僧侶 元曉(ウォニョ)が生まれた年でもあります。
華厳宗の僧侶である元曉は650年, 義湘と共に唐に渡ろうとしようとしたが、高句麗軍に阻まれ失敗。661年また義湘と唐に渡ろうとしようとしたが、党項城の古塚にとどまっているときに、偶然に骸骨に溜まった水を飲んで、「真理は遠くにあるものではない。枕元で甘く飲めた水が、起きた後に骸骨に溜まっていたことを知った時、気に障り吐きたくなった。だが、世の中への認識は心にこそある」と悟って帰って来た。
その後は華厳学の研究に専念し、240巻もの著作を成した。
弟子の審祥が日本に華厳宗を伝えたため、東大寺を始めとする南都の諸寺院でもてはやされるようになり、高山寺にある『華厳縁起』には、元暁にまつわる様々な伝説が語られている。
Wikipediaによる
一方、中国では617年は隋末の混乱の中で李淵 が太原で挙兵して南下した年です。李淵は後の 高祖、唐の初代皇帝です。
李 淵(り えん、566年4月7日 – 635年6月25日)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋の恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に太宗(李世民)に譲位し、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。
(wikipediaによる)
おわりに
聖ケヴィンが歩いたに違いないグレンダロッホの谷をウォーキングしながら、同時代に生きた聖徳太子や元曉や李淵のことを考えると、歴史の流れの不思議な符合を感じます。
グレンダロッホには他にも丸い塔や大きな聖堂の跡もあります。その話は別の機会にまた!
コメントを残す