パリの植物園は王様の薬草園だった!

パリのお買い物や美術館めぐりに疲れたら。
広々としたパリ植物園 Jardin des Plantes ジャルダン・デ・プラントへ散歩に行ってみませんか?
どんな季節でも素敵な花や木に出会える植物園。
フランス革命よりもずっと昔の、王様の時代の薬草園が元になって作られた、由緒ある庭なのです。
大きな温室に一歩足を踏み入れれば、寒い季節でも亜熱帯。
緑したたるジャングルに飛び込んだような気分が味わえます!
すこしだけ、歴史を知っておくと、散歩がますます楽しくなりそう。

セーヌ川に面した広大な薬草園

 17世紀はヨーロッパの各地に王侯貴族の肝いりで植物園が作られた時代です。パリの植物園は、ルイ13世の命令で1635年に創立されました。
 ルイ13世の侍医をつとめていたギー・ド・ラ・ブロッス Guy de La Brosse の念願の構想が聞き入れられた成果でした。
 5年のあいだ、工事をしたり、植物の種を蒔いて育てたりして準備を重ね、1640年に一般に公開されました。

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1635年といえば… 日本は徳川幕府第3代将軍 家光の時代。
武家諸法法度を改定し、大名の参勤交代の制度をつくりました。
またこの頃 キリスト教禁止令を強化し、鎖国を始めたのです。

パリを流れる川は、セーヌ川だけじゃなかった!?

 この植物園の作られた場所は、セーヌ川の左岸
 今は地下に埋められて見えなくなっていますが、実はビエーヴル川 la Bièvreという、もうひとつの小さな川が、流れていたのです。
 1550年頃に作られた木版の地図 (Truchet と Hoyaux によるバーゼルの地図 Plan de Bâleと呼ばれるもの)を見ると、 12世紀の頃にサンヴィクトール修道院(地図の下左のほうにある 壁に囲まれて塔の立っているところ)の修道士たちがビエーヴル川の流れを付け替えて、自分の土地に水を引いていた様子が見られます。
 ビエーヴル川に沿って、水車もたくさんあったのです。

 ここに水が流れていたことで、木や花を植えるのには、とても条件の良い場所だったということができます。

1550年頃の地図(Truchet と Hoyaux によるPlan de Bâle) に見える ビエーヴル川

 この地図の中ほどの、小さな丘の上に風車が見えますが、その右側を通る道(現在のrue Geoffroy Saint-Hilaire)とセーヌ川のあいだの場所が、薬草園になりました。

王立薬草園の創立者 ギー・ド・ラ・ブロッス Guy de La Brosse

 パリの王立植物園の創立者 ギー・ド・ラ・ブロッス Guy de La Brosseは、アンリ3世の時代 1586年頃にパリで生まれました。

1586年というと、ちょうど日本では安土桃山時代。
豊臣秀吉が関白になった翌年でした。

 さて、このギー・ド・ラ・ブロッス 若い頃は兵士だったようですが、28歳(1614年)の頃にはパリに落ち着いて化学を学びました。
 1619年からはブルボン家のアンリ2世の、さらに1626年にはルイ13世の侍医になりました。
 薬草園で植物を育てて、医術の役に立つ化学も教える場にしようと考えるようになりました。

 化学医学植物学… そして薬草の知識も!
 ルイ13世といえば、ヴェルサイユ宮殿を作った、あのルイ14世の父王ですね! リシュリュー枢機卿が宰相として活躍したのも、ルイ13世の時代でした。

ギー・ド・ラ・ブロッス
ルイ13世

 その頃、パリでは薬のための植物を栽培する庭薬草園)があちらこちらに作られていました。しかしどこも手狭だったのです。
 ギー・ド・ラ・ブロッスは、広々して、いろいろな薬草を体系的に植え育てて研究できる薬草園を作りたいと考えました。
 そこで、ルイ13世に仕える医師団の頂点にいた ジャン・エルアール Jean Hérouard の助力を求めたのです。

 その頃のフランスで最も医学が発達していたのは、南のモンペリエでした。
ギーはモンペリエにあったような薬草園をパリにも作ろうとしたのです。
 モンペリエの薬草園は、その頃すっかり荒れ果ててしまっていたからです。
イタリアのパドヴァやオランダのライデンの薬草園も同じでした。

 ルイ13世の命令によって薬草園=「王立庭園」 le Jardin du Roy の管理を任されたギーは、乾燥させた薬草の標本を収集し、薬草から薬を蒸留したり取り出したりする方法の教育を始めました。
 薬草園と同時に、研究や教育の場を作って、医学の水準を高めることが目的でした。

Le laboratoire de chimie et le droguier du Jardin (1676) – Sébastien Leclerc (1637-1714)

医者や薬剤師を教育する場所、自然科学の研究の中心になった「王立庭園」

 その頃、パリの学問の中心は、ソルボンヌ大学でした。
 ソルボンヌ大学の教育はラテン語で行われていました。
当然、ラテン語をマスターした者でなければ教育が受けられなかったのです。
しかもキリスト教の神学者が大学の中枢を支配していたので、キリスト教の教えに合わない研究や学問は認められない時代だったのでした。

 「王立庭園」は、誰もが散歩に来られる場所でした。
植物や化学や解剖学などについて、誰でも実際の材料を見ながら勉強できる場所でした。
 しかもフランス語で教育が受けられるようにしたので、どんどん人が集まってきました。医師や薬剤師の卵が盛んに勉強をするようになりました。
 温室では、遠い国から持ち帰ってきた珍しい植物を保存、栽培しました。

 ギー・ド・ラ・ブロッスが1641年に亡くなったあとも、自然科学の研究や植物の分類研究を進める人たちの集まる場所になりました。

 「王立庭園」は王様直属の研究教育機関だったので、そこで進める研究に対しては、ソルボンヌ大学の神学の権威も口出しすることができませんでした。
 18世紀、1739年からパリ植物園の管理者になったジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon が『博物誌』Histoire naturelle で、聖書の創世記に述べられてある世界の創造とは違った説を書いて発表したときにも、ソルボンヌ大学の神学者たちは表立って反対したり、出版を差し止めたりするようなことはできず、黙認することになったのです。

 「王立庭園」は、18世紀にさらに発展して、自然科学の研究の中心に成長しました。その話は続きで見てくださいね! (つづく)

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