ダブリンのリフィー川岸、CHQ(Custom House Quay)ビルディングの中にある移民の歴史博物館EPIC The Irish Emigration Museum。
アイルランドから世界中へ移民した人たちのことが紹介されています。
アイルランドの社会に深い傷跡を残した19世紀半ばの「ジャガイモ飢饉」。
飢餓を逃れて世界各地へ移民した人たちの歴史を見ることが、いまのアイルランドの社会やアイルランドの人たちの考えかたを深く理解するうえで役立つように感じます。
Contents
ロシア皇帝の娘たちのベビーシッター
例えば、1863年 リムリック生まれのマーガレッタ・アレクサンドラ・イーガー Margaretta Alexandra Eagerは、1898年にアイルランドからロシアのサンクトペテルブルクへ行き、最後のロシア皇帝ニコライ2世の娘たちのベビーシッターとして1898年から1904年まで働きました。
イーガーがイギリス(アイルランドはその頃イギリスの植民地だった)へ戻ってからも、文通を続けていました。
ロシア皇帝の娘たち オルガ、タチアナ、マリア、アナスタシアは、後にロシア革命の混乱のなかで1918年に処刑されることになったのです。
土木作業にたずさわったアイルランド人たち
アメリカ大陸横断鉄道2000マイルの建設に携わった3000人のアイルランド人。
「全ての枕木の下にアイルランド人の骨が埋まっている」といわれたほど過酷な条件のもとで肉体労働に従事したのでした。
イギリスでも多くのアイルランド人が運河の掘削や鉄道敷設の工事人夫として働きました。
穴掘りnavvyと呼ばれて蔑まれた、社会の底辺の単純労働者でした。
20世紀に入ってからも、アメリカだけでなくイギリス、ビルマなど世界各地の土木作業や軍隊に従事するものが多かったのです。
悲しみと苦しみを踏まえた移民の歴史は、アイルランド社会の宝である
アイルランド第7代大統領メアリー・ロビンソンMary Robinson による演説 Cherishing the Irish diasporaの引用が展示されていました。
大飢饉の始まった1845年から150周年にあたり1995年2月2日に「アイルランドのデイアスポラ(離散)の歴史を大切に抱いていこう」と力づよく述べた有名な演説です。
全文がアイルランド政府のホームページで公開されています。
人権保護の専門家として長年活動したメアリー・ロビンソンは、生まれ育った土地を追われて難民となった人たちに出会うとき、かつてのアイルランドの人たちの運命と同じものを見るのだと語りました。
この人たちをひとまとめに難民と呼ぶことで、ひとりひとりが希望も未来の計画もあった個人であったことを忘れてはならないと思うと。
そして今のアイルランドの社会にとって、移民と離散の歴史がどのような意味を持つのかを考えるのです。
結局のところ、移民は単に悲しみと後悔の記録ではありません。
[移民して行った各々の場所で]社会に貢献し適応していった人たちの力強い物語でもあるのです。
実際のところ、痛みと放棄とに彩られたこの没収と帰属の壮大な物語が、いくばくかは歴史の皮肉をともないながらも、 私たちの社会の宝となったことを[大統領として働いてきたこの数年間のあいだ]年々強く感じるようになりました。
もしそうであるとするなら、我々アイルランド国民と国境を越えて離散していったディアスポラという歴史的な事実との関係とは、私たちの社会に多様性、寛容、忠誠心の価値を教えてくれる関係に他なりません。
多様性と寛容がアイルランド社会の基本
世界中に広がり故国を遠く離れていてもアイルランドのルーツを忘れない人々。
その人たちとのつながりを意識しながら、今アイルランドの社会を生きる人たちの拠って立つ価値観は、過去の記憶を踏まえている。
悲しく苦しい飢饉と移民。
その体験から発して、世界に広がっていった文化的な遺産を自分たちの伝統として誇りに思うこと。
苦しみの時代を踏まえて多様性と寛容をアイルランド社会の基本とすることが、力づよく宣言されてありました。
遠い国からやってきた者をこだわりなく受け容れてくれる、シンプルで暖かいアイルランドの人たち。
生活のなかで感じていたことが、この演説のテキストのなかに凝縮されているように感じました。
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